| No.305 2010.12.22 |
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日赤の原点は西南戦争の中で生まれた―― 「戦場で傷ついた人を、敵味方の区別なく救う」赤十字の思想は今から151年前、イタリア統一戦争(1859年)の中で生まれたが、時を経ずして日本に伝わった。江戸末期から明治初めにかけての日本人の吸収力、そして実現力は本当にすごい、と驚かされる。 「赤十字」に初めて出合った日本人は幕末の佐賀藩士、佐野常民だった。1867年、パリで開かれた万国博覧会に、幕府、薩摩藩、佐賀藩が家臣を送った。その一人、佐野は、博覧会に展示されていた患者輸送車に目をとめた。そこはフランス赤十字社の展示館で、ヨーロッパ各国から集まった救急馬車や担架などが並べられ、各国赤十字社の代表らの情報交換の場となっていたのだ。第一回赤十字国際会議である。 佐野は強い感銘を受けた。後年、日本赤十字社の会合で、この出会いを振り返り、「文明開化といえば、人はみんな、法律を作ったり、すぐれた機械を作り出すことがその証(あかし)というが、私は赤十字のような活動が盛んになることこそが、真の文明開化の証ではないかと思います」と述べている。維新後、佐野は1873年(明治6年)、明治政府の代表としてウィーン万国博覧会に派遣され、ここでも、赤十字の活動が広がっていることを知った。 1877年(明治10年)、西南戦争が起きる。政府軍と西郷隆盛率いる鹿児島士族の戦いは熊本城をめぐり激しい戦いを繰り広げ、両軍とも多くの死傷者を出した。佐野は、赤十字のような組織が必要だと考え、救護団体「博愛社」の設立趣意書を作った。 熊本の司令部にいた征討総督有栖川宮熾仁親王に会い、これを差し出して許可を得た。1877年5月3日のことである。後に、この日は日本赤十字社の創立記念日と定められた。(赤十字の名称はジュネーブ条約加盟国しか使えないので、この時、未加入の日本は博愛社を名乗った。87年、日本赤十字社と改称した。) 博愛社の救護員は早速、熊本、長崎、鹿児島の軍病院などに派遣され、両軍の傷病者の救護にあたった。この内戦で、博愛社が敵味方の区別なく救護した患者は1429人にのぼった。また、この時、水俣など地域的に発生したコレラの流行地にも救護員を派遣して、予防と手当てに努めた。 東京では元老院審議官の大給恒(おぎゅう・ゆずる 元三河奥殿藩主)が博愛社の活動ぶりを新聞に載せたり、お金やモノ(事務所、机、筆、紙など)を出してくれる有志を集めたりした。この有志を社員と呼んだ。 この呼び方は現在にまで通じている。「日本赤十字社法」(昭和27年制定)には「日本赤十字社は、社員をもって組織する」と定められているが、この「社員」とは、一般の会社とは意味が異なり、毎年500円以上の「社費」を納入する人を指すのだ。平成21年3月末現在、個人社員が約1129万人、法人社員が約16万法人。私は東京・下町で政治活動を始めた当初、多くの家の玄関に赤十字のシールが貼られ、「日本赤十字社社員」と書かれているのに戸惑ったが、社員とは毎年寄付をしている人という意味なのだ。 日本は1886年(明治19年)ジュネーブ条約に加入、翌年、国際赤十字への加盟を認められ、博愛社は晴れて日本赤十字社と改称した。政府は「ジュネーブ条約解釈」という小冊子を作り、全軍人に配布した。 この時期、ヨーロッパの赤十字などを調べて日本赤十字社の基礎を固めたのが陸軍軍医総監だった橋本綱常。62ベッドを持つ博愛社病院(まもなく日本赤十字社病院に改称)を東京に開設。 さらに、ヨーロッパにならって女性の看護人すなわち看護婦を養成することとした。1890年(明治23年)、日本赤十字社病院に最初の10人が入学した。彼女らは英語の教科書で学んだ。その1ページ目には「外国人の患者を救護し、あるいは外国赤十字社救護員と共同で仕事をする場合のことを考え」と記されていた。なお、橋本綱常は福井藩の医家の出身で、安政の大獄で獄死した橋本左内の弟。左内は、私の地元、荒川区南千住の回向院に墓がある。 看護婦といえば、NHKで上映中の「坂の上の雲」で、日露戦争開戦(明治37年、1904年)も近づいた時期に海軍軍人秋山真之の妻となる季子(すえこ)が結婚前、「まもなくロシアとの戦争に行くことになり、場合によっては生きて帰れないかもしれない」と言う秋山に対し、「華族女学校で、これからのレディは自立しなければならない、と教わりました。貴方に、もしものことがあれば、私は看護婦になって、自分で子らを育てます」と凛々しく答えるシーンがあった。英国で貴族出身のフローレンス・ナイチンゲールが1854年、戦地で「クリミアの天使」と崇められ、帰国後は看護学校での教育に力を入れたことに加え、日本赤十字社でも、高い理想のもとに初期の看護婦養成が始まっていたことを背景にした脚本だろう。 ドイツで開かれた第4回赤十字国際会議に出席した日本代表団の通訳を務めたのが、当時ベルリンに留学していた森・林太郎(りんたろう。後の森鴎外)だった。この会議で、「差別なく救うということをヨーロッパ以外の国にも当てはめるかどうか」という議題が上がったのに対し、森は「赤十字が、地理や人種の差別がないということで加盟した」と強く抗議。この議題は取り下げられた。 明治27年の日清戦争では、看護婦を国内の軍病院に派遣、また、軍の依頼を受けた日赤が1449人の清国捕虜を収容した。 この時の経験から、日赤は1899年(明治32年)、「博愛丸」「弘済丸」という2隻の病院船を英国で建造した。平時には日本郵船で客船として、戦時には患者の輸送船として使った。 日露戦争はもとより、第1次世界大戦では主戦場となった欧州で、ロシア、英国、フランス3カ国の救護活動を支援するため、各国に救護班を派遣した。 第1次大戦では、ドイツ兵を租借地だった中国・青島で捕虜とし、徳島県鳴門市の捕虜収容所に収容したが、そこで彼らはベートーベンの第九交響曲を演奏した。それだけ人道的な扱いだったのである。日本初の「第九」演奏で、ここから今日の第九ブームへと発展していく。 さらに、ロシア革命の影響によりシベリア地方で難民となったポーランドの孤児765人と付き添いを日本赤十字社が受け入れ、ポーランドや米国に送りとどけた。 第2次世界大戦に敗れた日本は、赤十字の国際組織に助けられた。 赤十字国際委員会(ICRC)駐日首席代表だったスイス人医師マルセル・ジュノー氏が被爆直後の広島の惨状に衝撃を受け、GHQに救援を訴えた。この熱意が実り、GHQからは15トンの医療物資が供与された。ジュノー氏は、この物資を携え、広島の原爆被災者の治療に心血を注いだ。後にジュノーと会見したマッカーサーから「人のために働く原動力は何かね?」と尋ねられ、「それは…愛です」と答えた。広島平和公園の片隅に、マルセル・ジュノー博士の顕彰碑が建てられている。広島市の有志がアニメ映画「ジュノー」を制作、2010年秋、東京でも上映された。 また、戦後すぐから、在外邦人の引き揚げが進められたが、帰還船には赤十字救護班が乗り込み、出迎えた。 また、国交のない国との間では、引き揚げ交渉も両国の赤十字が担った。そうやって、昭和28年(1953年)3月から中国残留邦人の引き揚げ、同年12月からソ連残留邦人の引き揚げが始まった。 もっとも、1945年8月9日という終戦まぎわに日ソ中立条約を破って満州に攻め込んだソ連による日本軍捕虜約60万人に対する仕打ちは、赤十字思想の基本を成すジュネーブ条約や国際法の精神にまったく反した、ひどいものだった。満州だけでなく、終戦後の9月初めまでかけて占領した樺太や千島からも、シベリア各地の強制収用所に送り、ソ連の国内法によって日本軍人を裁いて重労働を課し、ろくに衣食を与えず、寒さと飢えに苦しませた。 最終の帰還船が舞鶴港に入ったのは昭和31年12月だが、その年の8月帰国した瀬島龍三氏は回想録「幾山河」に、「ナホトカ港の岸壁にマスト高く日の丸を翻した『興安丸』が横付けになっていた。日本赤十字社の葛西嘉資副社長が『全日本国民に代わって皆さんをお迎えに来ました』と言ったとき、目頭の熱くなるのを禁じえなかった」と記している。 日赤といえば、ふだん目にするのは献血車だ。第2次大戦後、アメリカ赤十字社は日赤に輸血の指導援助を行った。しかし、輸血用血液がすべて日赤の献血事業でまかなわれるようになったのは昭和49年(1974年)と、ずっと後のことである。 戦後、無償献血の考えはすぐには根付かず、民間血液銀行の売血による血液確保が増加した。不健康な常習売血者の血液から輸血後、肝炎に感染する患者が多く、買血血液は「黄色い血」として社会問題となった。 その後、日本の復興も進み、東京オリンピックが開かれた昭和39年(1964年)、親日家で知られるライシャワー駐日米大使が暴漢に襲われ、この時受けた輸血がもとで血清肝炎に感染したことがきっかけになり、医学生らが売血追放キャンペーンを展開した。 こういった流れを受け、政府は同年、輸血用血液は献血によって確保することを閣議決定した。昭和44年(1969年)、民間血液銀行で行われていた売血による輸血用血液の供給が姿を消し、昭和49年、民間血液銀行が預血制度(自分が預けた血液と同じ量だけ、将来必要になったとき、銀行に保存されている他人の血液を輸血してもらえる制度)を廃止した。日赤の献血事業によってすべてがまかなわれるようになったのである。 日赤の平時の最初の救護活動は1888年の磐梯山噴火(福島県)で、麓の五色沼には「日本赤十字社平時災害発祥の地」という碑が立っている。明治の三陸大津波、大正の関東大震災、さらに昭和の御巣鷹山日航機事故、平成の阪神・淡路大震災、三宅島噴火災害など、今日に至るまで、ありとあらゆる自然災害や火災、大事故などで救護活動を行ってきた。 日赤は、海外での災害支援にも医療チームや救援職員を派遣したり、救援物資を送るなど、活動している。最近では、今年1月のハイチ地震、2008年中国四川大地震などだ。 また、ベトナム難民救援運動や、災害時の救護、途上国でエイズ予防対策や救急法普及支援、さらに高波対策のためのマングローブ植林など多様な活動を続けている。日赤とNHKが共同で毎年12月に行っている「NHK海外たすけあい」募金が国際活動の主な資金源となっている。 |
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